美醜

他人の容姿を平気でおちょくるような言動を見ると心がざわつく。

ニュースやネット上のコメント、フィクション作品に至るまで。セクハラなんて言葉が生易しくなる人格攻撃レベルの文章がよくもまあ平然と漂っている。
まあ、そういうおれも他人を見た目で判断している。脂ギッシュなおっさんの顔面なんて生理的に無理だし、ときには自分の顔に吐き気を催すこともある。
ていうか容姿全般に対するもろもろの感情が煮詰まって、いつしか美醜に関わらず「顔」そのものに嫌悪感を抱くようになっている。

現実、ネット、虚構。そこら中至るところに顔、顔、顔。

おれは近眼なのに通勤・通学時によく眼鏡をはずしていた。視界に入ってくる通行人が、のっぺらぼうの「動く肉A」という物理現象になってくれるからだ。
近くの知人にはあちらから声をかけられるまで気づかないという当然の欠点はあるが、それでも得体のしれない顔面に始終さらされることを回避できるというメリットには替えがたい。おかげでよく「メタルギアの無能兵士みてえだ」と揶揄されていた。

ネット。
少なくとも00年代までのネットやi-modeに限れば、現在のネットのように人間の顔が侵食してくるようなことはなかった。それはもちろん、コンピュータの性能や通信速度が今よりもずっと低レベルだったから画像・動画データを気軽に扱えなかったことが原因だろう。
当時はプログラムのプの字も知らない子供だったので正確なところはわからないけれども、今から思い返せば、間違いなくネットはテキストの占める比重の高いメディアだった。はずだ。なにせHTMLの発端は学術論文を手軽に共有することが動機だったのだから。

VTuberには期待していたんだが、結局アニメ絵の美男美女だらけになっちまった。顔のないアバターがもっと流行ってもいいもんだと個人的には思うんだが、亜人にせよ他の動物にせよ重要なのは容姿や表情のようで、この世の縮図を垣間見ているような気分になる。
VRChatはプレイしてないから知らんけど、Twitterを見てる感じだとたぶん似たような状況だろう。仮想空間だろうが現実となにも変わらんという絶望。

もう人類みんな虚構船団の文房具のような存在になればいいんだよな。図形とかでもいい。とりあえず「顔」がなければよい。それで容姿による様々な社会問題はすべて解決する。
そう考えるとイスラムは結構理にかなってる。偶像崇拝が禁止されてるから人物造形の代わりに幾何学模様の描画が発展したらしいし(ソースはおれが高校生のときの世界史教師)、女性の服装が全身を覆い隠すのを規則にしているのも評価高い。ま、男性には強要していないのが論外だが。

いや、幾何学模様になってもひょっとして駄目かな。美に対する感性を持ち合わせている限りは。
どれほど複雑な関数を用いて美しい図形を練り上げられるかによって美醜の格付けをし合う世界になるんだろう、たぶん。ときにはシンプル主義に回帰したり流行り廃りを繰り返す。「お前の第三象限なんで歪なカーブ描いてんのダッサ、頭わいてんじゃねーのか(笑)」つって。